2012年7月19日木曜日

十年の歳月を経て

このたび第四十一回俳人協会賞を受賞された茨木和生氏の第七句集『往馬』(いこま)が、俳句四季文庫の新装版で上梓された。

句集を出すことには、さまざまな考え方があると思う。一生に一回、自分史の記念として出すのであれば、装丁を凝った化粧箱入りのようなものは望ましいし、また一方、文庫本サイズというのは持ち歩く便利さもあり、手にとって広く読んでもらうには好都合である。今回の「あとがき」にもあったが、句集というのは概して著者の手元に残らないものなのである。良いものを残していくためにも、文庫本として再度上梓されていくことは、意義深いことと思う。

 たまたま『往馬』は平成13年俳人協会賞受賞当時、単行本のかたちのものをご恵贈いただいていたこともあり、今、十年を経て読み直す機会をいただいたことは得難い経験であった。

 当時の私の中に一番心に残った句は、

こがねうちのべたるごときこのこかな   という句であった。

たまたま友人たちとの秋田の吟行旅行で、当時、「このこ」なるものの実物を見ていた。「このこ」とは、海鼠の卵巣を三角形に伸ばして、乾かしたもので、珍味中の珍味である。珍味というのは貴重であるから、値段も恐ろしく高い。一辺が十センチくらいの三角形の大きさのものが、当時でも数万円はしたと思う。金色に干されているこのこを見るとまさに、「こがねうちのべたるごとき」である。
さらにこの句の凝っているところは、芭蕉に一句一章の句をたとえて「こがねうちのべたるやうに」と言う言葉があるのだ。それを踏まえての句なのである。そして紛れも無く、この句は「このこ」の一句一章の句である。そんな茨木和生氏の遊びごころを感じて、当時、心に残った一句であった。

 俳壇きってのグルメでもある、茨木和生氏の一面はこの句にも集約されているが、今回読み直して思ったのは、茨木氏の負っている風土と、その故郷への想いである。東京に生まれ育った私には、見当がつかなかった事柄が、この十年を経て理解できるようになってきた気がする。氏は集名の『往馬』(いこま)からもわかるように、幼少期から生駒山を眺めて育った。現在も平群という深吉野の地に住まわれている。
 今回、特に心惹かれた句をあげてみたい。

   雪漕ぎをして業平の墓に行く
   一本の針金なりし貂の罠
   ゐずなりし蚕飼疲れを知る人も
   濃き墨はひかりて乾き雲の峰
   蹴り脚の伸びすこやかな鹿の仔かな
   尻子玉抜かれしごとき水中り
   熊の糞崩れてゐたる雪間かな
   罠づくり伝授してをる春炉かな
   しぶちんといはるるは癪祭来る
   井戸替の痩鯉を投げ上げにけり
   海豚とは知らせてをらず薬喰

 十年前の私には、これらの句の諧謔味は理解できなかった。土に根ざし、生きることの、野太さは自分とは無縁ものものだと思っていた。しかし、今になって俳句の世界の中だけに忘れられてはいけない深吉野の風土のもつ力を、いきいきと善も悪もすべてをひっくるめたふところの深さを、この句集に感じはじめている。歳月を経て同じ句集を読み直すことで、気づくのは新たな自分なのかもしれない。そんな貴重なひとときをいただいた。

2012年7月17日火曜日

晶メール句会7月の作品から考える


 「晶」では会員が全国に散らばっているので、定例句会を月一回15日締切のメール句会にしています。7句投句、7句選句にコメントをつけて、投句者同士が全員にメールで送りあい、最後に長嶺が集計して、結果をメール送付しています。ご興味のある方は、長嶺までお問い合わせください。次回の7句投句は、8月15日締切です。

 このメール句会も早や、3回たちました。今回から、気になった句とこうしたらどうだろうかという提案をこのブログでしていきたいと思います。あくまでご参考にと思っていますが、どうかご一緒に考えてみてください。

夫出かけ真昼の贅沢髪洗ふ

この句は、何となく自由を得て、のびのびとした妻の心境が良く出ていると思います。夫が現役を離れ、自宅に四六時中いられると落ち着かないのは、世の妻の常でしょう。
そんな妻の気持ちが素直に表れています。

しかし、俳句では、なるべく動詞を使わずに、コンパクトに表現することが必要です。一句の中には動詞が二つ以上はない方がいいという人もいます。なぜかと言えば、動詞を数多く使うことによって、表現が散文的、説明的になる恐れがあるのです。あくまで、
俳句は韻文の詩であってほしいのです。ですから、「晶」では基本的に、有季定型を守り、
歴史的仮名遣いで俳句を作っていきます。

具体的に云うと「夫出かけ」と「髪洗ふ」で動詞が二つになっています。もちろん「髪洗ふ」は季語ですので、はずせません。そうすると「夫出かけ」の「出かけ」の表現を変えられないでしょうか。

 「夫でかけ」は夫が居ないということ、つまり留守なのです。「夫留守の」としたら
どうでしょう。さらに定型は十七音ですから、「真昼の贅沢」では中7が八文字になって
しまいます。真昼のの「真」は必要でしょうか。「昼の贅沢」ではどうでしょう。

 さらに「真昼」を活かすなら、「贅沢」を「贅」に切れ字の「や」をつけて「贅や」ということで、ゴージャスな気分が伝わります。このようにして、韻文的に言葉を詰めた表現を考えていくのです。
 
 「夫留守の昼の贅沢髪洗ふ」  または  「夫留守の真昼の贅や髪洗ふ

私だったら、一歩すすめて「夫留守の真昼の奢り髪洗ふ」としますが、これは行き過ぎでしょうか。こんなことを参考にして、もう一度考えてみてください。内容はとても実感があって良い句だと思います。

撫でて買ふ小玉西瓜は子の頭ほど

店頭の小玉西瓜が子の頭ほどの大きさでかわいらしかったので、触ってはいけない西瓜を子の頭のように思わす撫でて買ってしまったということなのでしょう。この句は十分に
形もできていますし、状況も伝わります。

しかし、撫でて買ふという表現にも動詞が二つあります。さらに、子の頭を「あたま」ではなく「ず」と読ませて定型にしていることに、注意が必要です。結社によっては許されるかもしれませんが、一般的に通じるとは言えません。これを「子のあたまほど」と読ませて定型にする方法を考えてみましょう。

 「子の頭(あたま)ほどの西瓜や撫でて買ひ」としても 小玉西瓜であることは伝わるのではないでしょうか。撫でて買うという動詞二つが、うるさいと思えば、

「子の頭ほどの西瓜よ撫でやりぬ」で、それが店頭でも、畑でも場所の設定はOKになります。この添削した二句はあまり、上手な例とはいえませんが、必要なことの焦点を絞っていくことが、省略を効かせる表現の基本です。一から十まで云わないで一句に仕立てていく方法がないかどうかを考えてみてください。

自分が感動した焦点がどこか、それを自分でつきつめていくことによって、省略を効かせた表現が可能になります。

磯しぶき虹の断片出ては消え

荒磯へ波しぶきがかかる度に虹の断片があらわれ、そして消えるのでしょう。とても
鮮明に情景がわかります。問題は「出ては消え」がまた動詞が多いことです。この句のかたちも一句としては整っているのですが、あえて言えば私なら、次のようにするだろうと思います。どうか考えてみてください。
 
飛沫くたび虹の断片荒磯岩」 さらに切れ字を使い「飛沫くたび虹のかけらや荒磯岩

 庭園の岩尖りゆく日の盛り

あまりにも厳しい暑さのなかに、庭園の岩が尖ってみえたようだという感覚なのでしょう。しかし、「庭園の岩」とすると、「岩」の説明にならないでしょうか。

庭園に岩尖りゆく日の盛り」とすると庭園という空間の中に岩々が尖っていく様子が
浮かぶのではないでしょうか。「の」と「に」の助詞の違いですが、意味が変わってくることがわかるでしょうか。この「庭園に」としても「に」がそもそも場所をあらわす助詞なので、まだまだ、説明的ですが、「庭園の岩」としてしまうと、これは本当に岩がある場所説明をしているだけのことになります。

俳句は最後は助詞できまります。一字たりともおろそかにしない句作をこころがけたいものです。